2003年5月26日の三陸南地震 | 被災前史

2003年5月26日の地震の震央図

2003年5月26日の地震の震央図
[引用元:仙台管区気象台「宮城県に影響を及ぼした地震・津波の被害」]

マグニチュード7.1の地震

宮城県が「三陸南地震(リンク先:宮城県「2004年3月宮城県地震被害想定調査に関する報告書212ページ<付録 宮城県に被害を及ぼした地震の概要>」)」と呼んだ、2003年(平成15年)5月26日の18時24分に宮城県沖で発生した、マグニチュード7.1の地震です。

宮城県北部と岩手県沿岸南部・内陸南部では「震度6弱」、仙台市青葉区大倉(大倉ダム上流の気象庁設置無人観測点)では「震度5弱」、宮城野区五輪(仙台管区気象台内)と青葉区雨宮(仙台市青葉消防署内)では「震度4」を記録しました。

『出先での被災』を考える初めての機会に」へ

「出先での被災」を考える初めての機会に

この地震(リンク先:気象庁「強震波形(宮城県沖)」)は、
九州からの友人と待ち合わせをしていた(1998年11月に中国の江沢民氏が国賓として来日した時の仙台市での宿泊先に選ばれた)ホテルに私が到着する直前に、
「自家用車のエンジンが壊れたのか」と思えるほどの強さで起きました。

後に楽天イーグルス球団や羽生結弦選手のお祝いパレードが行われることになる仙台市中心部を南北に貫く東二番丁通という幹線道路と東西に貫く広瀬通という幹線道路との交差点のシグナルが青に変わるのを待っているときのことでしたが、
道路わきの電線が大きく揺れ歩道上にいる人々が一様に不安そうな表情を見せていた光景は繰り返し放映されている「3.11の新宿駅周辺の光景」とほぼ同じレベルのものでした。

そして、停電は起きませんでしたのでシグナルが青に変わった直後に左折をし、ホテルの地下駐車場への通路の入り口付近にショックで座り込んでしまわれた方を娘さんらしき人が立ち上がらせるのを待って車を動かし、
ホテルマンに手動でバーを上げてもらって地下駐車場へ降りたところ、天井の梁(はり)の一部が崩れ落ちたために駐車場係の人がコンクリートの破片を片づけていたり、
ロビーに上がって公衆電話と携帯電話で連絡を取ろうとしても「お話し中」で不可能だったりで、
「出先で被災するとこういうトラブルに遭遇するのか」と初めて考える機会となりました。

また、「被災体験記ノートへの投稿記事『東京防災 読んだ男性3割にとどまる報道を知って』」に記したようなホテルオーナーの方の全身全霊を注がれての事後対応ぶりも印象深いものでありましたから、
「このホテルの内外で体験したのは(記録上の『震度4地震』ではなく実質)震度5弱地震」と実感させられたことで、
「『記録に残る観測点での震度』と『いろいろな場所での実際の震度』との間の差異」についても身をもって認識させられました。

被災体験記ノート関連投稿記事

自宅内では一部の書類が散乱」へ

自宅内では一部の書類が散乱

その後、「この強さの地震体験は初めてだし、宮城県庁近くの木造の料理屋二階での会食中の出来事だったので『この店崩れ落ちないか』という人も出るぐらい揺れて、かなり怖い思いをしました」と言いながら約束の時間よりも大幅に遅れて到着した友人の「無事」と「ご家族への(『死ぬかと思った』というフレーズが今でも耳に残っている)無事であることの連絡」を確認した後、
夜遅く会社に向かいましたが会社内では何も起きていませんでした。
一方、自宅内では一部の書類が散乱していたので片づけ作業を行いました。

東北新幹線ダイヤの大混乱でも学習」へ

東北新幹線ダイヤの大混乱でも学習

なお、この地震では「阪神・淡路大震災」以降進められていた新幹線の高架橋橋脚補強工事の対象外となっていた橋脚が岩手県内で23本損傷し、東北新幹線のダイヤが長時間大きく乱れました。

翌27日昼には東京での会合への出席がセットされていたので私は早朝の仙台駅に到着し、新幹線のホームで運転指令所からの出発指示を待っていた列車の車掌さんに「次の列車の指定券があるのですが、この列車の自由席なら乗っても良いですか」と聞いたところ「もちろん構いませんが、途中駅での追い抜きがありますから(指定券を持っている)次の列車になされた方がよろしいですよ」と勧められました。

ですが、「次の列車が確実に運行されるという保証はないし、ここは自己責任で」と目の前で出発指示待ち中のその列車に乗り込んで移動を始めたところ、およそ3時間、その次の列車を含めて仙台駅から東京方面へ出発指示の出た列車はゼロ本となってしまいました。
混乱時の移動手段の選択について否応なしに学習させられた一場面でした。